東京世田谷ロータリークラブ

卓話「ポールハリスと米山梅吉」/慶応義塾大学名誉教授 米山桂三/より抜粋

Paul Harris 1868年4月19日生まれ 1947年1月27日没

Paul Harris(1868-1947)

 
1905年2月23日、当時Chicagoの弁護士であったPaul Harrisを中心に斡旋業をしていたGustav Loehrと石炭商であったSilvester Schiele、

そして洋服地商のHiram Shoreyの4人が語らってChicagoのGustavの事務所に集まりRotary Clubの第一回会合を開いた。

1868年にWisconsinの田舎町でうまれたHarrisは3歳のとき事業に失敗した父親に連れられてNew England地方に住む祖父母の

家に預けられることになったのであります。祖父母の家では特に祖母の愛を一身に集め腕白小僧として自由奔放な生活が許されていた

ようでありまして、高校時代には退校処分を受けるといった事態をもひき起こしていたようでありますが、1887年19歳のとき祖父母の

家を離れてPrinceton大学へ入学し、また後には法律を学ぶために、Iowa大学へ移り1891年にIowaを卒業しているのであります。

Iowa大学卒業後5年間(1891年から1896年まで)というものはアメリカ全土そしてヨーロッパまで足を延ばしたHarrisの放浪時代で、

その間収入を得るために何度か地方新聞社に職を求めで駆け出し記者として糊口(ここう)をしのいだことがありました。

1896年、5年間の放浪の生活に終止符を打って1896年にChicagoに落着き法律事務所を開くことになりました。

当時のChicagoはアメリカを襲った経済不況の時代でありましてChicago市は不潔を極め(Rotary Clubの最初の

社会奉仕事業はChicagoの街角に公衆便所を設けることであったといわれています)犯罪や不道徳、あるいは

不誠実な悪行為が横行していた時代だということでありまして、こうした事態を憂えたことがHarrisを弁護士業に

就かしめたきっかけの一つであったようであります。

さて、Paul HarrisはChicagoでそうした世情を憂えていた特に親しい同憂の友人と語り合っている間に、

そうした会合を定期化しようということでできたものがRotary Clubであったのでありまして、それが

1905年2月23日Harrisが37歳の時のことであったのであります。

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