「 帰国報告」 佐久間 栞さん 帰国青少年交換学生(フランス) 2015/7/27

こんにちは。佐久間栞です。まず、横須賀南西ロータリークラブの会員のみなさまに、深い感謝を致します。今回は留学という私の大きな大きな夢を叶えさせていただき本当にありがとうございました。この留学は、人生の中の一年間ではなく、一年間の人生でした。2014年8月26日から2015年7月1日まで、私はフランスのロレーヌ地方にあるナンシーという街に留学させていただきました。この留学の目的は全部で3つありました。1つ目は「日本という国を伝える」こと。2つ目は「フランスという国を知る」こと。そして3つ目は「新しい世界を見る」ということです。私は今、胸を張って全ての目的を達成することができた、と言うことができます。
(8月26日、ルクセンブルク空港にて。第一ホストファミリー、ホストクラブの会長と青少年交換委員長)
(6月29日、ルクセンブルク空港にて。第二ホストファミリーと)
(ナンシー)
以前フランスの田舎町に2回遊びに行ったことがあり、“フランス生活”の想像はある程度ついていたはずでした。しかしやはり、2週間と1年間とでは単純に年月の差だけではなく、決定的な相違がありました。観光客として迎えられていたことに加えて、兄のプレゼンテーションによる、この国の良い面しか見えていなかったのが、それまでの2回のフランス旅行でした。しかし、今回の留学はフランスという大国の細部、大袈裟に言えば“光と影”を感じたものでした。街の治安の悪さや未成年喫煙者・飲酒者の圧倒的な数。更に、道行く人に「お金をくれ」「煙草をくれ」とせがむ貧困者達。日本という安心安全な国で生きてきた私にとって、それらは到底信じ難いものでした。

もちろん、この留学中たくさんの美しいものも見ました。ヨーロッパの各国の主要都市巡りツアーにも参加しました。
(ラクレット)( チーズ) 美味しいフランス料理もたくさん食べました。中でも、私のお気に入りは「エスカルゴ」と「ラクレット」です。エスカルゴはご存じの通りカタツムリです。殻から取り出し内臓を除去したカタツムリを、パセリとニンニクのみじん切りをたっぷり練りこんだエスカルゴバターと一緒にオーブンでよく加熱し、トロットロのバターとニンニクの香りに包まれたエスカルゴの完成です。フランス人の中でも意外と好まない人も多く、食事会で食べない人4人分の皿(計24個)のエスカルゴを食べたこともあります。「ラクレット」というのはスコップにいろんな種類のチーズを乗せ、熱くなるプレートの上に並べ、待ちます。その間にホカホカのジャガイモやハムなどをお皿の上に盛り、カットします。5分ほどでチーズはフワフワに溶け、さら〜っとそれらの上にかけるのです。ひとことで言えば「絶品」です。ところがこのラクレット、働く主婦にとっては、ただチーズとジャガイモとハムを用意すれば充分なため、忙しい時の手抜きメニューなんだとか。そんなラクレットは、フランス産のいろんな種類のチーズやハムをゆっくりと味わうことができるということで、いつか日本に広めたいフランス家庭料理ナンバーワンなのです。ちなみにフランスでは365日、毎日違うチーズを食べられる、つまり400近い種類のチーズがあるそうです。
(エスカルゴ) 私がフランスに着き、一番最初に壁にぶち当たったのは、わずか二日後のことでした。ロレーヌ地方のロータリークラブ主催による二泊三日のキャンプミーティング。私はここで今の自分が「外国人」であるということを深く思い知ったのでした。留学前、日本で関わった「外国人」は皆、日本という国に興味があり、少なからず日本語を話すことが出来ました。しかし、ここはフランス。初めて世界各国から集まった30人の留学生インバウンド達と顔を合わせた時、私は茫然と立ち尽くすことしかできませんでした。そんな私の耳に聞き覚えのある単語が入ってきました。「コンニチワ!」その声の持ち主は一人のオーストラリア人の女の子。そう、彼女はまさにその後の私を幾度となく助けてくれる恩人となるのでした。オーストラリアの高校で二年間日本語を学んでいたという彼女は、フランス語はおろか英語すら満足に話せない私を三日間全力でサポートしてくれました。そして私はその時「この留学を成功させなくてはいけない」「日本人の殻に閉じこもっていてはいけない」と強く決心したのでありました。

(同じ地区のインバウンド達)
九月に入り、学校が始まりました。そこで私がイメージしていた冷たい無関心なフランス人という像は簡単に崩されました。彼らは言葉のわからない私に、積極的に話しかけてくれました。恐らくそれは私の所属していたクラスがインターナショナルセクションといって英語に特化したコースであり、多くの生徒が異国に興味をもっていたということが大きく影響されていると思います。しかし二週間ほど経ってくると同じ教室に外国人が、日本人がいるという感覚は彼らにとって珍しいものではなくなり、徐々に一人ぼっちになっていく時間が増えました。私はどうしたらもっとみんなに私の存在を認識してもらえるか考えました。当時私はフランス語の勉強に躍起になっていて、早く言葉を習得してみんなと交流をしたいと考えていました。そのため暇があれば図書室へ行き、一人勉強をする日々でした。その図書室は私にとって一つの出会いの場でした。たくさんの友達が出来ました。というのも、一人、机に座って勉強をしている私にたくさんのフランス人が声をかけてくれたからです。「どこからきたの?」「名前は?」「どうしてフランスに来たの?」「何かフランス語の勉強で困ったことはある?」そこで私は勉強の質問をするというのは人とコミュニケーションを取る時の良いきっかけになると気付いたのです。私のクラスメートに「私、質問があるんだけど」と話しかけると、10人中10人が「なに!?どうしたの!?なんでも答えるよ!」と気さくに返答してくれます。これによって私のフランス語力は大きく進歩し、更に周りの人々との関係は前よりも深くなっていきました。12月を過ぎた頃から、私は日本人留学生としての佐久間栞ではなく、一人のクラスメートとして接してもらえるようになった気がします。そしてその頃から学校生活が格段に楽しくなりました。
実は、私はこのインターナショナルクラスの他にフランス語特訓クラスと呼ばれる、移民してきた生徒のための授業にも週の半分、出席していました。普通クラスで行われる「フランス人」に対しての授業に到底ついていくことのできない私に学校が出してくれた助け舟がそれでした。そのクラスにはアルジェリア・アルバニア・アルメニア・トルコ・グルジア・ナイジェリア・バングラディシュ・アフガニスタン・アンゴラ・イタリア・ロシア・シリア・スーダン・スペイン・コソボ・モロッコからやってきた25人の生徒がいました。自国になんらかの問題があり、穏やかに暮らしていくことが困難となった彼らが、友人や家族と一緒に母国を捨て、フランスという一つの大国に飛び入ったのでした。私とほぼ年齢の変わらない彼らが違法滞在にしろ正規滞在にしろ、“安定した”生活を求めて国境を越えて来た、という事実は日本という島国に住む私にとって、途轍もない衝撃を与えたのをよく覚えています。日が経つにつれ、ようやく心を開けるようになった彼らと、お互いに拙いフランス語で確かめ合いながら会話をしていくと「母国を捨てる」という表現には明らかな語弊があることに気付きます。フランスという大国に逃げていながら、自分の生まれ育った国を、激しく主張する者も多いのです。また、ただ単にお金稼ぎのためだけにこの地に赴いている者もいます。
そうした「フランス人」に成り切らない人々、すなわち移民生徒との関わりが私の留学に大きな影響を与えたことをひしひしと感じています。現に彼らは、移民社会の抱える問題と向き合う機会を私に与えてくれたのです。私の留学の動機のひとつに「自分の知らない世界をみたい」というものがありました。私は今、胸を張って、この留学の意義を語ることができます。そして、彼ら移民達との関わりは日本にいては決して掴むことのできなかった、国際理解への太い手綱であると、私は確信しています。
ではここからホストファミリーについて話を始めようと思います。私は一つ目のホストファミリーには12月までお世話になりました。その後、クリスマスやお正月は色々な人の家に招待していただき、毎日が風のように過ぎ去っていきました。ちなみにフランスではクリスマスは家族と盛大なパーティをし、お正月は友人と盛り上がるというのが主流のようです。そして年明け。ついに二つ目のホストファミリーの家に行く日が来ました。それは私の留学生活第二章の幕開けでした。私は彼らからたくさんの「愛」をもらいました。彼らは私を本当の家族のように可愛がってくれました。一般的にフランスの家庭では「家族愛」というものを非常に大切にします。家族揃ってテレビを見る時間だったり、テラスでおしゃべりを楽しむ時間だったり。夕食もよっぽどのことがない限りみんな揃って食べるのが当たり前です。一度私がバスを間違え、普段の夕食の時間から1時間30分ほど遅く帰った日があったのですが「ごめんなさい。先に食べていてください。」とメールをしたのにも関わらず彼らは私のことを待っていてくれました。このようにフランス人には家庭というものを大切にする文化が根付いているようです。また、多くの夫婦がおじいちゃんおばあちゃんになってもラブラブで、街で手をつないでいる姿をよく見かけました。さすがは愛の国、フランスです。
ちなみに、フランス人はフランスが大好きです。彼らは私にたくさんのフランスの素晴らしいところを語ってくれました。そして私はそんな彼らのおかげで、日本という国が大好きになりました。今、日本は私の誇りです。私は日本人であることを誇りに思っています。
6月13日、それは、最後の最後の登校日でした。じりじり照りつける太陽の下、バス停から学校の正門までの道を歩きながら、いろいろなことを懐かしみました。そして今歩くこの道も、きっと一週間後には、もう懐かしく思えてくるんだろうな、なんて考えたりもしました。喫煙する生徒で溢れかえる正門を通り、がたがたしたコンクリート製の階段を上り、今すぐにでも大粒の涙が溢れそうでした。「今日で最後なんだ」という感覚はあまりにも辛く、まるでこの留学の終わりを示しているかのようでした。そのくらい、私の学校生活は楽しかったという思い出で埋め尽くされていたのです。
(クラスメイトと最後のピクニック)
(折り紙のプレゼント)
この日の昼、私のクラスメート達と学校近くのペピニエール公園でピクニックをしました。フランスに着いて五日経った頃、ホストシスターと訪れた、このだだっ広い公園。野原にところどころ大きな木が茂り、それはまるで絵本の世界でした。その緑に座っておしゃべりを楽しむ高校生達を見た私は、ちょうどこの瞬間「いつかこの公園でピクニックをしたい」と小さな夢を描いたのでした。そんな小さな小さな夢が帰国を二週間後に控えたその時、ついに叶ったのです。みんなで持ち寄った食べ物達を囲み、その一年を振り返ったり、これからの人生を語り合いました。私は一週間前から寝る間も惜しんで作り上げた折り紙のプレゼントを渡しました。たたむとハートが現れる箱の中にワンピースまたはTシャツを貼った紙を入れ、さらにその裏には所狭しと、個人個人とのエピソードを書き入れました。それが、私のジャンヌダルク高校1年10組の生徒としての最後の瞬間でした。みんなの笑顔と熱いハグ、「ありがとう」という言葉たちは、言うまでもなく私の一生の宝です。
このあと、本来授業のなかった私ですが、泣きはらした目で学校へ戻りました。どうしてもフランス語特訓クラスの移民生徒たちに別れを告げたかったからです。初めてみんなの前に立ち、一年間の感謝を述べました。このクラスのおかげで毎日学校に来るのが本当に楽しかった。毎日大声で笑うのが最高に幸せだった。私たちの間に国境はなく、宗教、人種の違いなど一度も感じたこともなかった。ただただ、あなたたちに出会えてよかった。と全身全霊で伝えました。そして大声で泣きました。そこにいたたくさんの生徒が自分のしていたアクセサリーや筆記用具などを土産としてプレゼントしてくれました。この日は私の留学生活の中で一番悲しい日であり、一番多くの涙を流した日となりました。
さて、このようにして私の1年間の人生は幕を閉じました。毎日が冒険で、なにもかもが新鮮で、時に悩み、挫けたこともあったけれど、それが私を大きく成長させてくれたことは確かです。たくさんの人と出会い、人と繋がることの楽しさを覚えました。言葉の壁も、人種や宗教の違いも取るに足らないことで、世界に生きるということは、それらをも楽しむことであると知りました。
最高の留学生活に関わってくれた世界中の全ての人に感謝をすると共に、しっかりと恩返しをするつもりで、これからの人生を歩んでいこうと思います。

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