例会日時  月曜日 12:30〜13:30

 例会場  湘南信用金庫北久里浜支店 2階
 事務所  〒239−0807
 横須賀市根岸町3−3−18
 湘南信用金庫北久里浜支店内
 TEL&FAX 046−837−1211

 

E-mail yokosuka-sw-rc@dnsip.ne.jp

 

http://www.dnsip.ne.jp/~yokosuka-sw-rc
 会長  坂倉  五佐男
 副会長  西田 金忠
 幹事  綿谷 透
 会報委員長  大橋 昭夫

RIテーマ “Lend a Hand” 手を貸そう 国際ロータリー会長 Jonathan B. Majiyagbe

第1240回例会週報 
2003年8月4日(月)
斉唱 『君が代』
合唱 『奉仕の理想』
唱和 『四つのテスト』
幹事報告 *ガバナー事務所より、 『研究グループ交換チームメンバー』募集の件受領。
*国際ロータリー2760地区より、 『2005年日本国際博覧会及びロータリー館利用に
   関するアンケートのお願い』受領。
*横須賀北RCより、例会変更通知及び週報受領。
*横須賀南RC、三浦RC、逗子RC及び葉山RCより、週報受領。
*葉山RCより、例会変更通知受領。

出席報告

会員 出席 欠席 本日の出席率 前週メーキャップ前  前週メーキャップ後
35名 24名 11名 68.57% 68.57% 68.57%
メーキャップされた会員
  神奈川・横須賀プロバスクラブ 坂倉会長、西田副会長、綿谷幹事
誕生祝 夫人誕生祝
 

  永井仁子様 8月 6日
  石井美津子様 8月 9日
  西田芳枝様 8月16日
     
     
     
     
     
真木英一会員  坂倉五佐男会員
8月 6日 8月17日
入会祝
     
  渡辺重博会員 菱沼正喜会員  
  1985年8月19日 1985年8月19日  

ニコニコボックス

坂倉五佐男君 いよいよ夏らしい天気となりましたが、会員の皆様には健康に留意して仕事にお励み下さい。
坂倉五佐男君 誕生祝ありがとうございます。50歳以上はカウントしない事にしています。
坂倉五佐男君 待場さん、大越さん本日の卓話よろしくお願い致します。
西田金忠君 女房に誕生祝有りがとうございます。
綿谷   透君 待場さん、大越さん本日の卓話よろしくお願いします。
永井不士男君 女房に誕生祝有難うございます。
渡辺重博君 入会祝ありがとうございます。18年前の夏を思い出します。
真木英一君 いよいよ四捨五入すると60歳になりました。よろしくお願いいたします。
高橋隆一君 暑くなりました。高校野球は残念ながら初戦敗退でしたが、今日も元気に練習しておりました。
来年こそ。
10 西塚五郎君 西田さん、能登のキリコ祭感動しました。又お願いします。ありがとうございました。
11 片山軍二君 待場会員、大越会員、卓話楽しみにしています。
12 渡辺佑一君 待場、大越会員、卓話たのしみにしております。今後ともよろしく。
13 大越郁男君 私の履歴書、お話させていただきます。
14 待場   浩君 私の履歴書を話させていただきます。宜しくお願い致します。
前日計 92,000円 本日計 26,000円 累計 118,000円

卓話「私の履歴書」

待場 浩会員

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパンの待場です。
7月より当ロータリークラブに入会させて頂き、今はSAAをやらせて頂いております。
私の履歴書を話すようにと事ですが、皆さんに私がどこの馬の骨で何をやってきて、
今何をしているのかをお話させていただきます。
私は1942年、昭和17年6月28日に大阪で生まれ、大学卒業まで大阪にいました。
親父は丹波の田舎から出てきて丁稚奉公の後早々に独立して
大阪市内で酒屋を営んでいました。
妹と弟の3人兄弟で下町の学校に通い、野球やめんこや将棋等を近所の腕白
仲間と楽しむ普通の少年時代でした。
酒屋も今ではデスカウント店が出来てかっての面影がなくなりましたが、
昔はそれなりの商売が出来、親父も働き者でしたからお得意さんからも親しまれ
結構忙しくやっていました。
特にお中元やお歳暮の季節になると忙しくなり、夏休みや冬休みは朝から夕方まで
殆ど店の手伝いをさせられました。
2階の部屋で勉強していると、「浩勉強なんかしないで店を手伝え」と
呼びつけられたものです。
その頃はビールや酒も荒縄で縛り付けてそれにのし紙を張って進物物にする時代でした、
このような進物物やお得意様の注文の酒・醤油・味噌・塩の類を自転車の
荷台やハンドルにぶら下げ配達していました。
年末には超多忙で夜遅くまでになり、31日は深夜まで及びラジオから聞こえる除夜の鐘の音
を聞きながら掃除をしていました。
そのような中でも毎年28日には夜には店を閉めて一家で餅つきをやる
律儀さはあり楽しみでした。
会社に入っても年末は手伝いに大阪に帰っていましたから、NHKの紅白歌合戦は結婚して
初めてテレビで見たぐらいです。
このような状態ですから親父は私が高校を卒業すれば酒屋を継がせようと思っていました。
私はどうも継ぐ気になれず大学に行ってもっと勉強をしたいと思っていました、
幸い母親は理解を示してくれて、国立か公立なら入っても良いと言われ
結局1年浪人して大阪大学に入り機械工学を勉強しました。
中略
2000年1月から現在のグローバル・ニュークリア・フエル・ジャパンが発足し、
JNFの原子燃料製造会社からGE社、東芝、日立の人材も一緒になって原子燃料の
営業・開発・設計・製造を一貫して行う会社として再スタートしました。
この会社の最初の社長をやるように言われましたが、私は原子燃料は全くの素人ですし、
GEとの付き合いもあまり深くなかったし、英語も得意でなかったのでこれは
大変だなと困りました。
しかし決められた以上はやるしかない、気持ちはケセラセラだが自分としてのベストを尽くそう、
ダメだったら首になればいいと思うと気が楽になりました。
最初は副社長と人事関係、財務関係者がGE社から派遣され、私の指導・監視役です。
会社設立の目的は国際競争力の強化、世界No.1の燃料会社を目指そうですから、
それに合わせて徹底的に合理化を行い、少数精鋭で、米国の兄弟会社と一体で材料調達
や共同開発、分業生産などシナジー効果を生かして来ました。
またこの会社には旧ニュークリアいわゆるJNFの人と親会社だった東芝・日立・GEからの人が
出向なり転籍して一緒なって働くことになりました。
それぞれ会社のカルチャーが違います、これをどのように融合させ同じビジョンのもとに全員が
協力し合えるようにしていくかも社長としての大きな仕事でした。
そのためにワークアウトを含め多くの話し合いを行い、全従業員から会社に対する質問や
上手くいっている事、上手くいっていない事を出してもらい、
上手くいっていない事にどう改善するかを関係者で時間をかけて議論し方針をだしたり、
シックスシグマのような新しいツールを全従業員に教育し使わせ浸透させたりしていきました。
今では全員が力を合わせてやって行けるようになりました。
もちろん安全や品質は第一である事には変わりはありません、
1999年の東海村でのJCOの事故後多くの皆さんが当社は大丈夫かと心配されました。
国はもとより地元の市長始め多くの方が当社に来られ現場を見ていただいて
安心して頂きました。
当社は街中にある原子燃料工場であるので、地元の皆さんに理解していただく事が大事と
積極的に見学者を受け入れています、
是非皆様も身近な方で見学ご希望の方は当社に申し出頂くようお願いいたします。
最後になりますが、最近では日本に限らず米国でも企業の不祥事が続いているので、
特にコンプライアンスやインテグリテーをしつこく教育し浸透させています。
仕事の話ばかりになりましたがすこし個人的な事を付け加えます。
生まれは大阪ですが、既に人生の半分以上は東京や神奈川です、
現在の住まいは横浜の緑区で女房と二人暮しです、息子二人とも既に社会人として
巣立ち長男は結婚して二人の子供がいます。
趣味はガーデニングで梅、桃、桜、ハナミズキなど庭木と花壇と芝の手入れをやったり、
下手なゴルフをやったり旅行や映画鑑賞、読書と雑多です。ご清聴有り難うございました。
 
 

大越郁男会員

 

 

 

 

 

 

 

生まれは茨城県取手市で、竜ヶ崎一高、茨城大学とずっと茨城県で育つ。
大学、大学院では機械工学科で熱力学を専攻。
S54年に東電に入社、横浜火力勤務。
当時の横浜火力は現場での操作が多く、設備も旧式のものだった。
S55には当時、最新鋭だった広野火力に転勤。
広野火力1、2号機は55年に運転を開始し、当時としては全自動化火力として
最新鋭の発電所だった。
最新鋭の発電所に来たこともあって、自動化の仕組みに大変興味を持ち、
その後、発電所の自動化関連の仕事に従事。
S59年からは新設火力発電所の制御関係の設計を担務。
当時は発電所の建設ラッシュの時代で、富津火力、東扇島火力、広野火力などの
プラント設計をおこなった。
S62年に東扇島火力の2号機の建設、その後H3年には
広野火力4号機の建設を担務。
H7年には、本店火力部の業務システムグループ勤務となり、
今度は同じコンピュータでも、業務処理用のコンピュータの仕事をするようになった。
H7年当時は、社内でもようやく電子メールが普及しはじめた程度だったが、
米国では国を挙げてIT化に取り組んでいた。
わが国も米国に遅れを取らないようにと当時の通産省が中心となり、
国家プロジェクトとしてCALS技術研究組合と言うものを設立し、
電力会社の立場から、このプロジェクトに係わった。
このプロジェクト自体は3年ほどで終わったが、
H12年にはジャパン−eマーケット会社の設立に係わる。
H12年7月に横須賀火力に転勤、現在に至る。
横須賀火力では今回、長期停止していたユニットを急遽運転再開するなかで、
人間のパワー、団結力のすごさを実感した。
人と人とのつながりは様々な可能性を生み出す。
ぜひ、今後とも末永くお付き合いいただきたいと思います。

第2回理事会

1.財団寄付について
 
2.夏季音楽会について
 
3.活動計画書について
 
4.その他
 
 

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