■卓話「私の3回の空襲体験談」 石黒 幸雄様 |
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昭和十七年十二月八日に太平洋戦争が始り、その日の様子は曇った日で裏通りに入ったら、大人の人がうつむいて歩いていたのが頭に残っています。 |
だれもがアメリカと戦うのをよろこんでいた人はいなかったと思います。 |
昭和七年八月生まれの八十五歳です。 |
昭和二十年八月に横中(現在の県立横須賀高校)に転校し、二十六年に卒業、一浪し、横浜国立大学に入学致しました。 |
その後三十一年に卒業し、三崎に十二年、横須賀に二十年、逗子・小坪・久木の校長を歴任しました。 |
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現在は三浦一族研究会の顧問を務めております。 |
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第一回空襲は昭和十七年四月十八日、第二回空襲は昭和十九年十一月にものすごい高さでB29が偵察に来た、十二月に九州に空襲が始まった。 |
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昭和二十年三月十日、葉山(葉山小六年生)から東京の空が真っ赤になっているのを目撃した。次の日、牛込榎町の家を確認した。 |
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平成十七年八月に入って深川門前仲町に住む次兄から月半ばにある三年に一度の富岡八幡の大祭りに来ないか誘いがあった。 |
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当日大江戸線の改札口で待ち合わせ、早目の昼食のあといよいよ十二時半からのパレードの見学である。 |
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先頭は芸者衆のきやり、その後五十六基の神輿が続く、暑さの中のパレードである。一時間程見て兄の家へ。 |
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さっぱりとしたところでよもやま話。その中の話題は空襲のことであった。兄は昭和三年生まれ、今年の十月に七十七才。商事会社に勤めていた。 |
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昭和二十年五月二十五日の夜に東京最後の大空襲があった。私は中学一年、次兄は中学五年、長兄は二十才、 |
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そして明治二十七年生まれの父の四人で牛込榎町の家を守っていた。 |
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祖母と母と弟は葉山に疎開していた。 |
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空襲の夜、B29が次々と飛来するがしばらくの間は無事だったが、早稲田大学の後方にB29が空中分解 |
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しながら落ちてからは様子が一変した。その火を目がけるかのようにB29が焼夷弾を落とし始めた。 |
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そしてそこら中が火になった。家の南百米ほどの道路際の家が大型の焼夷弾でやられたのであろうか |
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一瞬のうちに火に包まれるのが見えた。道路は逃げまどう人々で大変である。消火どころではない。 |
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南隣の家も炎でものすごい。もう駄目だと思い二階へ行くと隣の炎が我が家のガラス戸を突き破って入って |
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きた。家へ別れを告げ下へ降りて、父、長兄と私は外へ出た。家の前の空き地へ逃げた。そこは建物の |
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強制疎開の跡地であった。空き地の中、元あった家の水道栓をひねると水がほとばしるではないか。 |
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我々三人はトタン板を楯に水をかぶりつつ、すさまじい強さの暑い風と火の粉を防いだ。 |
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どの位の時間だったろうか、火がおさまってきた。 |
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長兄が次兄をさがしに行った。しばらくして二人が戻ってきた時は涙が溢れた。次兄は神田川につかり |
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たすかったのだった。右足首の火傷は治療中うじがわいたこともあったという、そのケロイドは今だに |
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妙に白くへこんでいた。 |
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戦争になれば一般市民も何もあったものではない。恐ろしく異常な世界なのである。 |
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原爆にしてもそうだ。自国ご大切の考えで正当化され、それを正義とするのが戦争なのだ。 |
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次兄が言うのには同世代でも空襲の体験者とそうでない人とでは戦争に対する考え方が違うという。 |
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私にしても空襲のあと初めて見た母と息子の抱き合うように倒れ、髪も着衣も焼け焦げた黒いご遺体の |
様子が目に焼き付いている。 |
六十年を経た今でも、空襲の夜のことは目の前にありありと映る。自分の命にかかわった体験は、 |
私がこの世に生きる限り絶対に消えないのである。 |
戦争は異常と狂気である。 |