例会日時 月曜日 12:30〜13:30
 例会場 湘南信用金庫北久里浜支店 2階
 事務所 〒239−0807  横須賀市根岸町3−3−18
  湘南信用金庫北久里浜支店内
  TEL&FAX 046−837−1211

E-mail:

yokosuka-sw-rc@dnsip.ne.jp

URL:

http://www.dnsip.ne.jp/~yokosuka-sw-rc
 会長 折笠    仁志
 副会長 坂本    喬彦
 幹事 安田      治
 会報委員長 大橋    昭夫

RIテーマ “The Future of Rotary Is in Your Hands

国際ロータリー会長 
ジョン・ケニー
(
スコットランド グランジマウスRC

第2780地区ガバナー
奥津 光弘
(秦野中RC)

第1527回例会週報

2010年4月12日(月)

合唱 『奉仕の理想』
ゲスト紹介

米山奨学生
オゼリ・ファーティ君

ビジター紹介

なし

会長報告 *IM参加のお礼。
*財団、米山寄付金目標達成依頼。
*6月29日(火)開催予定第1グループ三役会出席義務者
   会長:折笠、副会長:坂本、幹事:安田
   次年度会長:菱沼、次年度副会長:安田(重複)、次年度幹事:新中
   次年度ガバナー補佐:森、次年度ガバナー補佐付幹事:宮本
   以上7名のご参加宜しくお願い致します。
幹事報告 *ガバナー月信(bP0)受領。
出席報告

出席報告

会員 出席 免除会員
出席
本日の出席率 前週メークアップ前  前週メークアップ後
18名 15名 6名 88.89% 83.33%

94.44%

メークアップされた会員
第1グループ三役会→折笠会長、安田会員
現・次インターアクト委員会→宮本委員長
IM→折笠、坂本、安田、井上、藤田、菱沼、森、西田、西塚、新中。
ニコニコボックス報告
折笠  仁志君 オゼリ君、ようこそ。永井さん、本日宜しくお願いします。IMごくろう様でした。
坂本  喬彦君 今日は寒いですね。永井さん一年ぶりの話ですね、よろしく御願いします。
安田     治君 永井さん、卓話宜しくお願いします。
真木  英一君 永井さん、卓話よろしくお願い致します。
三橋  仁男君 永井会員の卓話参考にしたいです。よろしく。
鈴木  孝一君 永井さん、本日の卓話よろしく。
大橋  昭夫君 永井会員、卓話よろしくお願い致します。
菱沼  正喜君 永井さん、御苦労様です。
永井不士男君 本日は宜しく御願い致します。
10 宮本  清志君 永井さん、卓話楽しみです。
11 西田  金忠君 永井さん、卓話楽しみにしています。
12 森     勇人君 先日のIMご苦労様でした。永井さん、本日は卓話よろしく。
13 西塚  五郎君 永井さん、卓話たのしみにしています。
14 新中  宗光君 永井さん、本日はよろしくお願いします。
15 小関  正剛君 バースディプレゼントありがとうございます。
永井さん、「日本の伝統」の卓話楽しみにしております。

前日計

645,000円 本日計 19,000円 累計 664,000円

委員会報告 菱沼親睦委員長
春の親睦旅行案内 日時:平成22年5月12日(水)〜13日(木)

会費:5万円
旅程
5月12日(水)
横須賀7:00==横々==東名横浜IC==8:45海老名SA(休憩)9:00
==五湖道路==中央道==10:30谷村PA休憩10:45==11:45諏訪SA12:00
==12:50飯田(昼食)13:40==14:10出船 天竜ラインくだり15:00==清内路峠
==16:00南木曽「ホテル木曽路」宿泊
5月13日(木)
「ホテル木曽路」9:00==9:20妻籠宿(散策)10:20==10:50馬籠宿(散策)11:50
==12:20寝覚の床(昼食・散策)13:30==R19==権兵衛トンネル経由
==15:00諏訪SA(休憩)15:15==16:15谷村PA(休憩)16:30==18:00海老名SA18:15
==横浜IC==横々==配車各地19:30
卓話「服喪について 」 永井 不士男会員

服忌  親族が死んだ時、一定期間喪に服すること。

●忌引 近親者の死の為、勤めや学校を休んで喪に服すること。また、そのための休暇。

●忌服 近親者が死亡した際、血縁の濃さによって一定期間喪に服すること。
            
大宝令で初めて制度化され、幾度もの改変を経て1874年 、
            
父母の死の際は忌50日 、服13月等と定められた。

「忌」と「服」の意味 「忌服(きふく)」は「服忌(ぷっき)」ともいいます。一般には「服喪(ふくも)」と呼ばれています。
「忌(き)」とは、死者のけがれを忌むことです。人の死はけがれたものと考えられ、
死者を出した身内は、一定期間、日常生活から遠ざかり、身を慎まねばなりません。
この期間を特に「忌中」と呼び、現在では、肉親の死を悲しんで謹慎する期間と考えています。
「服(ぷく)」とは、喪服のことで、身内に死者があったとき、けがれた体を喪服に包んで、
一定期間、行動を慎み、身を清めることの意味です。
「忌」と「服 」を含めて「喪(も)」ともいいます。忌服の期間を「喪中」と呼びます。
現在では、「喪中」は慶事を慎む期間とされています。
かつての忌服令では中国の影響で父母の死は「忌」が死後49日、喪の期間は、死後1年とされています。
喪の間の食事について中国の儀式の古典である『礼記』「間伝」には、「父母の喪には3日間は断食で、3日目死者を棺に納めて祭ったあとに初めて粥を食う。
以後も粗飯に水ばかりで野菜も食べない。1年の小祥忌が終わって、初めて野菜・果物を食べる。
そして3年忌の大祥に初めて、酒、肉が許される」とあります。
亡くなった日を命日と呼び、毎年めぐってくるその忌日を祥月命日と呼びます。
この祥月命日については、「『礼記』によれば親が亡くなって十三月の祭を「小祥」(一周忌)・二十五月の祭を「大祥」(三回忌)という。
このように一周年・三年の月忌を「祥」というので、これ以後もこれにならって祥月という。
これは我が国の習俗の言い習わしによるものである。」とあります。
「祥」というのは「さいわい」と読むのですが、それは凶服を去って吉服になるという意味でつけられているのです。
ちなみに我が国では、明治7年に出された大政官布告の「服忌命」によると、
喪服を着て故人の冥福を祈って慎ましく服している期間の服装は父母のときは13月となっています。
先ほどの中国の小祥の期日と合っています。 これは中国の呼び方がそのまま日本に伝えられた訳ですが、
「梵網要解ぼんもうようげ」という書物には「正忌月しょうきげつ」とあります。
それは忌月は毎月ありますが、その月の忌日は「正当の月」なので、
「正忌月」といい、これを略して「正月しょうつき」といいます。
しかし「正月」は年の初めの「正月」(一月)と間違えやすいので、
先の中国の礼記による小祥忌・大正忌をとって「祥月」というようになりました。
また命日というのは『灌頂経かんじょうきょう』に死亡の日を「命過日めいかにち」とあり、
過は過ぎるということで、一期の寿命が過ぎ去った日という意味からこれを略して「命日」といいます。

「忌」と「服」の期間

忌服の風習は非常に古く、七世紀の後半、天武天皇が父母の喪に服した「重服」の記録が残っています。
忌服が制度化されたのは、西暦701年に、文武天皇の大宝律令の喪葬令が初めてです。
その後、養老令として修正されてから、江戸時代を通じて忌服の慣習は受け継がれ、明治七年に、太政官布告の服忌令が制定され、親等別に忌服の期間が定められました。
父母の喪の場合、忌の期間が五十日、服の期間は13ヶ月、また夫の場合は、忌が30日、服が13ヶ月なのに対して、妻や嫡子は、忌が20日、服が90日と、喪の期間に大きな差があり、家長制度の傾向が強く、現在に適用するには無理があります。
現在では、公務員が仕事を休める忌引き休暇は、夫か妻で10日間、父母、養父母で一週間といったところで、この忌引き期間は一般の会社にも取り入られております。現実には、忌引き期間が過ぎると、平常の生活に戻るのが普通です。
現在では、一般的には「忌」の期間つまり「忌中」は、忌明けまでの期間とされ、仏式では49日まで、神式では50日祭まで、キリスト教式に忌明けはありませんが、1ヶ月の召天記念日までと考えられています。
そして、「服」の期間、つまり「喪中」は1年間とされています。

喪<現 状>

喪とは人の死後、親族が家族の死を悼んで、特定の期間遊びや笑いをつつしみ、また酒肉を断って家に謹慎することをいいます。しかし現在では葬儀・法要以外は喪服を脱ぎ、普段と同じ生活をするようになりました。
しかし喪中はできるだけ派手なレジャーや遊興を避け、結婚式の出席や神社の参拝、年始参りも控えるのが普通です。

●忌引期間

官公庁服務規定によると、忌引期間は次のように定められています。
 ■ 配偶者‥‥‥(10日)
 ■ 父 母‥‥‥(7日)
 ■ 子 供‥‥‥(5日)
 ■ 祖父母‥‥‥(3日)
 ■ 兄弟姉妹‥‥(3日)
 ■ 孫‥‥‥‥‥(1日)
 ■ 叔父・叔母‥・(1日)

●喪中の年賀はがき

喪中には年賀状を出さず、年賀欠礼の案内はがきを12月のはじめに到着するように出します。
年賀欠礼は、故人と年賀状を交換していた人を忘れないようにします。

●服のいわれ

喪服は凶服ともいわれ、父母・妻子、親戚等の「忌服」の間は、喪服を着ることが定められていました。「忌服令」にある「服」とは喪服を着るべき期間のことで、服者は神事に携わることは禁じられ、また公事にも参加できませんでした。服喪期間がすぎて、これを脱ぐことを除服といい、河原や門前で行ないました。このように、もともと遺族のみが喪服を着ることが義務づけられており、一般会葬者は喪服を着る定めはなかったのですが、大正後期から、一般会葬者も喪服を着用するようになってきました。また遺族も喪の期間を通して着服することはせず、葬儀の時にのみ喪服を着るように変わってきました。

「死」を意味する黒

日本では、喪服は黒で統一される例が多い。ただし明治時代以前においては、喪服は白であった。明治天皇葬儀から、欧米に合わせて喪服を黒とするようにされた。
現代の日本において、喪服はや薄墨色が一般的である。また、和服の場合は喪主と喪主の配偶者がを着用することもある。逆になどの派手な色はふさわしくないとされている。
本来喪服とは、遺族が「に服している」ということを意味するもので、正式と略式と呼ばれるものがあり、親族は正式のものを着用する。
キリスト教系の宗派では、ベールで女性の顔を覆うことが喪の正装とされる。
喪服の英名は、モーニング・ドレス(mourning dress)やモーニング・クロース(mourning clothes)である。

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