例会日時 月曜日 12:30〜13:30
 例会場 湘南信用金庫北久里浜支店 2階
 事務所 〒239−0807  横須賀市根岸町3−3−18
  湘南信用金庫北久里浜支店内
  TEL&FAX 046−837−1211

E-mail:

yokosuka-sw-rc@dnsip.ne.jp

URL:

http://www.dnsip.ne.jp/~yokosuka-sw-rc
 会長 坂本    喬彦
 副会長 新中    宗光
 幹事 安田       治
 会報委員長 大橋    昭夫

RIテーマ “Peace Through Service

国際ロータリー会長 田中 作治
(
日本、八潮RC

第2780地区ガバナー
菅原 光志
(鎌倉RC)

第1653回例会週報
2013年2月4日(月)
斉唱 「君が代」
合唱 「奉仕の理想」
唱和 「四つのテスト」
ゲスト紹介 日本考古学協会会員
神奈川県・横須賀考古学会会員
中村 勉様

 

諸橋 千鶴子様
ビジター紹介

なし

会長報告 *ガバナー事務所より、「次年度地区便覧の為のアンケート」受領。
   提出締切:平成25年2月28日(木)
*日本支局より「2月のロータリーレート」受領。
   1ドル=88円
幹事報告 *ロータリーの友(2013年2月号)、受領。
*ガバナー月信bW(2013.2.1)受領。
*抜粋のつヾり その七十二、受領。
出席報告
会員 出席 免除会員の出席 本日の出席率 前週メークアップ前  前週メークアップ後
20名 12名 4名 70.59% 83.33%

83.33%

メークアップされた会員
  地区青少年交換オリエンテーション→宮本会員。
誕生祝 夫人誕生祝

西田 金忠会員
新中 宗光会員
折笠 仁志会員

西塚 千代子様
大橋 和子様
新中 園子様
入会祝 なし

ニコニコボックス報告

坂本 喬彦君 中村様、卓話をよろしくお願いします。ダイブよい陽気になってまいりました。
新中 宗光君 私と妻の誕生祝ありがとうございます。
後藤 忠雄君 皆様の健康を祝して。
井上 祐一君 中村 勉様、卓話よろしくお願いします。
真木 英一君 新中さん、先日は大変お世話になりました。
大橋 昭夫君 中村様、卓話よろしくお願い致します。
大橋 昭夫君 妻に誕生祝ありがとうございます。
菱沼 正喜君 中村先生、諸橋様本日は御苦労様。卓話宜しくお願い致します。
宮本 清志君 中村様、卓話楽しみにしています。
10 西田 金忠君 横須賀市から高貴光礼者の健康保険証が届きました。誕生祝、ありがとうございます。
11 折笠 仁志君 本日、誕生祝ありがとうございます。20歳になりました。
12 平野 忠雄君 中村様、卓話宜しくお願いします。

前日計

380,317円 本日計 24,000円 累計 404,317円

卓話 「 横須賀市佐原泉遺跡〜失われた遺跡が語るもの〜」 中村 勉様

講師紹介
明治大学文学部史学地理学科卒業
横須賀市立中学校教員、定時制高校教員・教頭、中学校教頭、山崎・大津小学校校長を歴任
1977年から三浦市赤坂遺跡の調査研究に携わり、現在赤坂遺跡調査団団長として活動している
日本考古学協会会員・神奈川県考古学会会員・横須賀考古学会会員

1 はじめに
 かって、湘南井田という「駅」があった。駅と言っても現在見慣れているような駅の構造ではなく、線路の枕木のような木を使ったプラットホームが田んぼの中にぽつりと建っているようなものであった。
今から50数年前の北久里浜駅の様子である。祖母と母と私が、佐原にある祖母の知り合いの家を訪ねた時の印象である。知り合いの家までは、タクシーで舗装のない狭い道路を行くのであるが、道は悪く凸凹で両側に水路のような細い流路があった。今、その時の風景を見出すことはない。
2 佐原泉遺跡との出会い
 私が再び北久里浜を懐かしく思い返すものは、昭和60年の12月から翌年の4月にかけ調査した「佐原遺跡」のことである。
日蓮宗の宝和泉山常勝寺の墓地が、横浜・横須賀道路のインターとなるため、移転することに伴う調査であった。
 遺跡は標高20m、東西90m、南北80mの小台地上にある。昭和50年代に一度分布調査を実施した際には、この台地の周囲には水田が開けておりこの台地は畑地で、台地の隅に農機具をしまう納屋が1棟あるのみでケヤキ・椿・山桜の木々さらには竹林が台地を取り囲むように繁茂していた。この納屋の下に鎌倉権五郎 景政を祀る御霊神社が鎮座しており、静かな田園風景をとどめていた。
3 13000年前〜14000年前の様子
この台地に人が住み始めたのは、今から13000年前のことである。おそらく縄文時代の開始期ないし旧石器時代末のまだ寒冷な気候の中で槍を狩猟具として、小さな集団で移動していた人々であった。この時期の人々の痕跡は、三浦半島において10ヶ所程が知られているにすぎない。佐原 泉遺跡に類似する尖頭器(石槍)は、三浦市赤坂遺跡から発見されている。尖頭器(石槍)は、鴨居上ノ台遺跡、吉井小橋遺跡からも出土しているが、いずれも標高40〜50mの見晴らしの良い台地上にある。
 9000年程前から温暖化の兆しが見え始め、6000年前をピークに海水面が上昇する。古久里浜湾が大きく発達し、久里浜周辺の茅山貝塚、吉井貝塚などの巨大な貝塚が形成される。この佐原泉遺跡一帯も海水に覆われていたことが予想されるが、その痕跡を見出すことはできなかった。しかし、その後の5000年から4000年前の人々の痕跡を僅かであるが認める事ができる。注目すべきは土器片錘の存在である。土器の破片を利用した網の錘であり、その存在はここでの生業に漁労が行われていたことを示すものと言える。それと同時に、台地上から1基の細長い落とし穴を発見している。落とし穴の存在は、ここが狩場であった可能性を想起させる。
縄文時代の遺物や遺構がきわめて少ない背景には、ここが居住地ではなかった可能性を暗示しているかも知れない。


巨大な竪穴住居

4 2000年前(弥生時代中期後半)の暮らし
 人々の定住を定める事が出来るようになるのは、2100年前のことである。弥生時代の中期後半、この台地は近隣の集落の中でも特異な地位を示すことになる。地域のランドマークとなる長軸12mを超える巨大な竪穴住居が構築され、大矢部川流域の人々がこぞってこの集落を訪ねることになる。その背景には、この台地が平作川と大矢部川との合流点にあること 、さらに、大矢部流域の河口として流域の戦略的要所となる地理学的位置がその要因となったと想定される。
 ここから、環状石器や有孔磨製石鏃(ゆうこうませいせきぞく)さらには半玦状勾玉と呼ばれる稀少遺物など、他の遺跡にはない遺物が発見されている。また、炭化米や大麦などの存在から、ここでの水稲栽培や畑作の生業化を認めることができる。
 しかし、ここでのにぎわいも長くは続かず、2000年前には規模の縮小化が進みさらにその200年後には小規模の集落に転落していく。その逆に、三足谷(みたしやと)遺跡や上吉井南遺跡などの平作川本流を望む地域に集落が新たに作られる様になる。そのことは、耕地のさらなる拡大化を目指す動きを示すものと言える。

佐原泉遺跡全景
カマド
カマド
5 古墳時代になると
 5世紀代のこの台地には、僅かであるが居住址を見る事ができる。しかもこの時期としては大型の住居が建築され、当時としては稀少な鉄製斧が発見されている。さらに、この時代に盛行する滑石製の玉類を作るための原石や、一部加工された管玉の未製品も発見されており、玉造り製作の様相を垣間見ることができる。この時代は古墳時代と言うが、5世紀から8世紀初頭にかけ3〜4軒の住居が継続的に維持されてる。この時期の住居には、従来の炉に変わってカマドが造られるようになる。この時代の人々は、鉄製鎌の存在から当然農業に従事していたと思われるが、一方で漁労を生業に組み込んでいたことが土錘の発見から窺われる。
11号土坑
11号土坑
馬具
出土馬具
6 10世紀後半の平安時代では
 この台地から人々の暮らしが消えるのは8世紀になってからであり、それ以降住居が建てられた形跡はない。しかし、10世紀後半、3基の墓が造られる。何れの墓からも人骨の発見はなかったが、焼土と炭層が認められ、お供え用の土器が発見されている。中でも11号土坑と呼ぶ墓からは、鉄製の馬具が発見されたことは、この墓に埋葬された人物の性格を物語るものとして貴重な発見と言える。
 この時代、関東においては平将門が天慶の乱(935年)を起こし、武力の力が興隆し始めてきた時期に相当する。馬具の発見は明らかにこのような動きと連動するものを感ずる。この地が、まさに衣笠城の玉手に相当する位置にあることが、きわめて重要な意味を持つと言える。この被葬者がはたして三浦氏に関係するかは検討が必要であるが、従来文献史学の範囲で三浦氏を語っていたことに対する考古学的成果を無視することはできない。
7 中世で再び利用された
 平安時代以降この地に人的痕跡は途絶えるが、15世紀において再びこの地の利用が始まる。台地ほぼ中央に5条の溝が掘り込まれている。最大規模の3号溝は、幅最大2.8m、深さ1.2m、長さ46.4mの溝が造られる。この溝はV字に掘り込まれ左右の側面には小さな穴がいくつも直角に掘り込まれている。この溝からは志野や常滑が出土している。他の溝からも、中世陶器やかわらけ、北宋銭などが出土し、これらがほぼ同時代に構築されたことがわかる。これらの溝がどのような性格かは不明であるが、3号溝の在り方は防御的な意味を持つことが想定される。この台地付近には、志野や天目、常滑等を出土する遺跡があり、いずれも山城的性格を帯びた遺跡との所見を得ている。本遺跡もそのような性格を持つ可能性を指摘できるかもしれない。
8 おわりに
 佐原泉遺跡は、新聞報道もなく現地見学会も開かず調査者関係者のみ知る遺跡であった。
そのため、その成果は明らかに考古学研究者の一部が共有する遺跡であった。
しかし、その成果は北久里浜のもつ歴史的価値を含め三浦半島という視点においても重要な意味を多分に持つことは明らかである。
今から28年も前に失われた遺跡ではあるが、佐原インターを通るたびにその価値について思いを巡らすのである。

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